六甲山西山谷での行方不明死亡事故は私たちに何を問いかけるか(増補版)
労山大阪府連盟 教育遭対部長 中川和道
2011年9月27日吹田労山の男性会員Mさん(68才)が六甲山で行方不明となり、労山大阪府連盟はのべ400名近い人数で総力戦の様相で捜索に取り組んだ。死亡で発見という残念な結果ではあったが、この力をプラスに発展させるべく、この事故が問いかけたもの、残したものについて考える。本稿は日本勤労者山岳連盟の登山時報2012年6月号に掲載された同名の記事を、大阪労山ニュース向けに補筆したものである。
経過:
9月27日朝、Mさんは家族に「六甲山方面に行く」と告げて自宅を出たが帰宅せず、翌28日10時頃に家族から吹田労山会員に連絡があり、会としては「単独、計画書未提出の行方不明事故」として昼頃に対応を開始した。家族と会から警察に届けたものの、山に入ったかどうか分からないとされ単なる行方不明者の捜索願としては受理されたものの山岳遭難としての捜索には至らなかった。自宅の手帳の「西山谷」の記述をもとに吹田労山は28日午後西山谷の捜索を開始した。
事態が変わるきっかけは15時30分頃にMさんの携帯電話に通話を試みた会員が確かな自動返信信号を受信したことであった。警察はこれをもとに発信源の位置を探索。Mさんの携帯電話の電波が弱くなりついに停止してしまう前に探索は無事終了し「神戸空港の基地局で受信あり。北を12時として11時から13時の範囲、かつ高度600m付近からの発信。」との結果が得られた。神戸空港の真北とは六甲山脈主稜線上では記念碑台あるいは保塁岩にあたりその高度は約800m。高度約600mとは六甲山脈南斜面上であり、ここにMさんの携帯電話がある。この事実から警察は初めて六甲山の捜索に着手する決断をしてくれた。徳野暢男吹田労山会長は29日午前5時,神戸市灘警察署での警察、消防、機動隊との打ち合わせに出席し、29日の西山谷の大がかりな捜索を先導することになった。
吹田労山としてはこの時点まで手をこまね
いていた訳ではまったくない。吹田労山執行
部は前述のように自宅に残されたM氏の手帳
から「西山谷」の文字をまず見つけ出し、最
近一緒に登山した仲間の話も総合して28日
11時40分には「M氏は2度目の西山谷に単
独で入山」と結論。吹田労山の男性会員5名
が28日13時48分西山谷に入谷し会独自で
最初の捜索を行った。谷を登り16時20分主
稜線の道路に達するも手がかりはなし。吹田
労山は翌29日の警察、消防、機動隊、吹田
労山の集中捜索の結果を受けてそれでも見
つからなければ労山大阪府連盟救助隊に広
範囲の捜索救助を要請することにした。
労山大阪府連盟救助隊は28日14時54分
吹田労山からの一報の電話を受信。18時34分労山大阪府連盟常任理事会メーリングリストでの一報を経て、28日夕刻、臨時三役会議を招集。救助隊だけでは人員不足なので労山大阪府連盟全体に捜索隊への参加のため待機しておいてもらうことを呼びかけることを決めた。これに基づき28日23時21分労山大阪府連盟全体向けのメーリングリスト(約450名登録)を通じて、30日(金)、10月1日(土)、2日(日)の捜索活動への参加協力を要請し、捜索の準備を開始した。
29日は灘警察署、機動隊、消防からの精鋭部隊約40名と吹田労山20名とが西山谷を2度、水晶谷と五助谷を1度捜索したが、発見できなかった。28日の吹田労山による捜索と29日の警察、消防、機動隊、吹田労山の集中捜索でも見つからなかった経緯を受けて、吹田労山は29日夜、労山大阪府連盟救助隊に捜索を正式に要請した。
30日は西山谷に近接する場所を再度重点的に捜索をとの方針のもと、灘警察署、機動隊、消防からの新たな部隊約30名と吹田労山28名が3度目の西山谷と地獄谷を、労山大阪府連盟29名が大月地獄谷などを捜索したが、それでも発見できなかった。労山大阪府連盟事務所では園敏雄会長はじめ吉松唯史救助隊長、瀬畠利章救助隊事務局長、滝上肇全国連盟副会長、中川和道教育遭対部長らが集結し合同捜索の結果を待ちつつ方針を練った(写真1)。発見できずとの結果を受け、「土日には多数の労山会員の協力が期待できる。10月1日(土)には西山谷の東側(東お多福山付近まで)、2日(日)には西側(杣谷付近まで)に捜索範囲を広げて多人数による速やかな発見を目指す」との方針を30日夜決定した(写真1)。手帳に書いた「西山谷」のあとMさんはどこに下山する計画だったのか不明だし、そもそも入山経路が西山谷以外であった可能性もあるからだ。
ついに広範囲の捜索に移った。土日の10月1日と2日は六甲山麓の電車の駅周辺には労山会員が多数集結し、文字どおり総力戦の様相を呈した。労山大阪府連盟救助隊を中心に捜索隊をパーティー分けし、無線機を尾根上に配置して指揮系統の確保をはかり、互いのパーティーの状況を交換しあった。1日には警察の捜索も行われた。1日には吹田労山51名労山大阪府連盟52名で上記の方針に基づき西山谷の東側6コースを、2日は吹田労山32名労山大阪府連盟95名で西山谷の西側9コースを文字どおり鋭意捜索し
た。写真2はYMCC(山の虫クレマントクラブ)の捜索隊で、1日に難度のやや高い沢登りルート、西滝ヶ谷−水晶谷−極楽渓の捜索を担当した。滝壺を捜索するためのなだれ用ゾンデ棒など捜索と救助のフル装備をもっての捜索であった。しかし週末の大動員捜索にもかかわらず、M氏は発見できなかった。
労山大阪府連盟としての集中的捜索はこの日10月2日(事故から5日目)をもって一応の区切りを終えた。吹田労山はこれ以降も会による独自捜索を続行し、労山大阪府連盟有志による個人レベルでの捜索も続行された。その後、10月30日をもって公式の捜索活動をついに終了することとなり、未発見という重い空気が大阪を支配していた。
Mさんが発見されたのは11月3日のことだった。何と、あの西山谷だった。西山谷に入谷したものの道に迷ってしまった登山者が偶然発見したのだ。ソーメン滝の東側支流の堰堤を越えた谷の上流左俣であった(図1)。名前入りの所持品からほぼ間違いないという警察からの連絡で現場に駆けつけたご家族と吹田労山会員によって本人と確認された。Mさんは司法解剖に付されその結果第2腰椎の骨折他が認められ、山岳遭難死亡事故と結論された。先の見えない苦しい戦いは思いもかけない助人によってついに終結したのである。
吹田労山と労山大阪府連盟は直ちに現場検証登山を行った。度重なる捜索を行いはしたものの発見現場は見事にそのすきをついていて「まさかここから上の場所ではないだろう」という微妙な位置であった。吹田労山のメンバーが推測したところでは、M氏は道を間違えて右側の支流に入ったものの、すでに西山谷には1度入谷経験があったがゆえにその上にさえ抜ければ大きな自動車道があることを根拠に進んでしまい、行き止まりで引き返そうとして下るうちに岩から落ちたのかもしれないという。単独行での死亡でもあり事故の真相はもちろん明らかではない。
吹田労山の臨時総会等では、「高齢者・
無届・単独経験不足・装備不足(雨具不所持など)・トレーニング不足」などの反省に立って、単独登山禁止(2012年10月末まで)、登山届提出の厳守を合意し、実行中である。また、吹田労山の最近の新たな傾向として、初級岩登り教室への参加者が増加してきた、ピッケル・アイゼントレーニングへの多数の参加が見られ、会員の気持ちにもはっきりとした変化がみられるという。また、労山近畿ブロックの救助隊が毎年4月に行っている事故者搬出訓練研修会で今年4月1日に奈良労山の担当で行われたハイキング部門にはこれまで最高の216名もの参加があり、事故防止と事故対策にかける労山近畿ブロックの心意気が現れている。
この事故は多くのことを私たちに残し、問いかけている。以下、順に見ていこう。
1.捜索の反省
まず、本命の西山谷の捜索の失敗である。西山谷の捜索は5度にわたって警察、機動隊、消防を含めのべ200名以上もの体制で行われ、全員が全力をつくしたにもかかわらず発見できなかった。救助隊や労山大阪府連盟会員の中には悔しさの感情を吐露する向きも多い。機動隊の捜索に同行した吹田労山幹部の話によれば、警察とくに機動隊の能力の高さには目を見張ったという。急なやぶの斜面をすごい勢いで駆け上りかけ下り、長い棒で水流を徹底的に捜索して下さった。結果的にみると、警察も労山側もその捜索範囲は本流付近・登山道付近に結局は限定されており、死亡地点の至近距離まで迫りながらもあと一歩の範囲拡大ができていなかったことになる。今にして思えば各ルート捜索隊の隊長に地図を渡し地図上に捜索終了範囲をマーカーペンで色塗りするなどこまめに記入してもらえばよかった。その地図を写真にとり、その捜索隊の参加メンバー票の写真とともに携帯電話で本部に送るなどしてもらう手があったのである。また、西山谷で発見できなかったあと東側と西側とに捜索範囲を広げてだめだったことを受けて西山谷に再度絞り直し実行する決断ができなかった。西山谷はあれだけの捜索をやったのだからという思い込みがあったのであろうか。発見失敗の原因をさらに分析し原因克服の方策を探ることは今後の課題である。
また、初動期に救助隊と労山大阪府連盟役員の任務分掌などに関して若干の戸惑いがあったが、幸いなことに捜索活動開始の遅れにはならなかった。この戸惑いに関しては、防災ヘリを駆使した消防レスキュー隊などの機動性が近年格段に進歩し、労山の救助隊が出動する場面が減ってきたという情勢の特徴が背景にある。これ自体はありがたいことなのだが、労山大阪府連盟救助隊はその活動の重心をかつての集団レスキューからセルフレスキューに移行してきた。この現状の中で今回のように多くの労山大阪府連盟会員が集団レスキューを行う場面が急に到来し、指揮系統が完璧にうまくは機能しなかったのである。事実、労山大阪府連盟では2006年に大がかりな行方不明捜索訓練が行われそのさいに捜索招集手順書の素案が提出され改訂が進行中であったのに、今回その活用は全く行われなかった。この反省をふまえ、労山大阪府連盟救助隊は6月に行方不明捜索訓練を実施することにした。若手中心に世代交代をした救助隊の成果を期待したい。
さらに、労山大阪府連盟会員の参加が多数にのぼり短期集中型の捜索を実行できたことは労山大阪府連盟のパワーの健在ぶりを示し、またありがたいことであった。その一方、捜索範囲が技術的難度の高い沢や荒れた登山道にまで広がった状況のなかでは二次遭難の可能性があって、本部はその防止に心を砕いた。今後の課題のひとつである。
2.計画書と単独登山
第1の教訓は、計画書など具体的な入山の証拠(又は証明)の提出がないと警察は山岳遭難事故としては動いてくれないことだ。入山の確かな証拠が必要なのだ。さらに今回は六甲山という場所の特殊性がある。六甲山脈はその主稜線や山頂域を舗装された自動車道路が登山道と交差しつつ縦横無尽に走っておりハイカーや登山者は高速で走り抜ける自動車やバイクの脅威にさらされる。山岳事故も自動車事故もここでは同レベルの危険である。10年ほど前の中級登山学校で保塁岩登攀のあとボッカのためザックを25sにすべく石を探すよう校長に命じられてやぶに入った仲間が頭蓋骨を拾った。どうせにせ物でしょうが念のためと警察に届けたら、いえいえ本物の可能性もあるのでと登山学校長が警察に呼ばれきっちり事情聴取を受けた。また、ある登山口付近では暴力団による「処刑」が行われたとの新聞報道もあった。単独行でこんな現場にもし出会ったらどうしよう。六甲山は気心の知れた優しい裏庭では決してない。山岳遭難以外の危険も潜むそんな山である。今回の行方不明でも教育遭対部は吹田労山に対し、警察への届けにあたっては山岳事故だけでなく、交通事故、不審事故全般においてMさんの捜索をお願いするよう助言した。このように、自分がどこを登るという計画書とそれに基づいた行動は、もしもの時に自分の足取りを他人にたどってもらう重要な証拠品なのだ。
第2に、本人の不備と組織の不備について考える。この事故は入会1年の初心者が計画書を出さないで無届登山を単独で行い、しかも雨具を持参していないなど装備にも問題がある形でおきたものであった。「高齢者・無届・単独・経験不足・装備不足(雨具不所持など)・トレーニング不足」というこの状況だけ見ればいかにも本人の不備はまぬがれず批判の対象である。しかし自分から進んで死に向かう登山者はいない。この状況でも自分は大丈夫というある種の確信があればこそMさんは山に向かったのであろう。こう考えたうえで、「この状況では大丈夫ではない」と本人があるいは会が判断できるというところまで対策を詰め切らないと同じ事故が繰り返す可能性がある。労山大阪府連盟教育遭対部は吹田労山の拡大運営委員会に出向き、「今回の事故の反省にあたっては本人の責任に多くを帰することは容易だがそれでは解決にはならない。計画書提出が緩んでいる会も存在すること、今回の事故を機に急に引き締めを図ってうまくいく会もあるが、数十年事故なく現状で推移してきたことから会の規則を急に厳密適用すると会が壊れてしまい無届登山の登山者が増えてしまう可能性もあり得る。計画書の必要性を原点に戻って例えば技術的問題として考え直し、自分の入山路を会に知らせる具体的手段は何か?いざ倒れたら自分の居場所をどう知らせるか?を考える。こういう技術論を突詰めると、計画書を出すことが確実な解決になる、単独登山は危険だという結論に帰結するのではないか?議論を十分詰めてほしい。」という提案をした。
労山大阪府連盟では、事故の当事者や当事者に近い責任者が一堂に会して経験を語り合い教訓を探し合う会合「事故対策会議」を昨年から3回にわたって行っており、この場ではこういった議論が頻繁に行われ始めている。特徴ある論点として、まず計画書とは何かが議論され、通常の計画書のほか電話で計画書作成・提出の依頼を受けた第3者が書面にすれば有効な計画書と考えてよい、労山大阪府連盟中級登山学校で指導している計画書には自分のザック、ヤッケ、ヘルメットの色を記入する欄があり、遠距離からの発見に寄与している。確かにこういう詳細多情報の計画書も良いが、記入が面倒と考える人もいる。まずは最低限の情報から始めることが有用である。また、電子メイル計画書も有効だが熟年層には使いにくいので強制は良くない、などの指摘がなされている。それぞれの会でどういう計画書を義務づけていくかは結構バラエティに富んでおり、工夫のしどころである。計画書のスタイル研究は登山文化の研究テーマだと中川は思っている。
かつてはどの駅にも伝言板や計画書を入れる郵便受けがあったが、それらは近年あとかたもなく撤去され自分の足取りを残す手立ては限定されてきている。予定したルートが工事中で閉鎖されているなど登山口で計画の変更を会に知らせたくてもふもとでは携帯電話の電波は届かない場合も多かろう。今というこの時点で、計画書の機能や実質的な形態あるいは自分の足どりをいかに会に知らせるかをあらためて考えなおす必要があるのではないだろうか。
11月21日の第2回事故対策会議では、(a)自分の入山路を会に知らせる具体的手段は何か?(b)いざ倒れたら居場所をどう知らせるか?、(c)こういう技術論を突詰めると計画書になるのではないか?という議論がなされた。会議では、のろしを上げるには煙がよく出るので生木を燃やすとよい、花火の大きな音で捜索隊に自分の所在を知らせることができないだろうか、雪崩埋没者の捜索に用いるビーコンは何mくらい電波が届くのか、数km届く機器は作られないだろうかなど、いろいろな経験やアイデアが話された。こういういろいろな討論をしてみると、単独行の危険度はかなり高いものであるという認識で参加者は一致した。
3.携帯電話
いざという時の所在連絡のため携帯電話の電源は入山とともに切るべしというのが緊急事態対応の鉄則である。中川もこう説いてきた。ところが今回のMさんは電源を切らなかったおかげで所在がつかめた。事実は公式どおりには展開しない好例であろう。この経験を教訓化すると、「携帯電話の電源は入山後も切らないほうがいい場合がある。予備電池を多めに持っておこう」となる。しかしスマートフォンなど電力消費が激しい機種もあり、今後の研究が必要である。
4.救助隊にかける保険
事故対策会議の議論では、救助隊にかける保険の必要性が指摘された。すなわち、ハイキングで行方不明の事故当事者に必要な費用よりも救助隊出動に要する費用が多額となるであろう、救助隊員自身を対象とする保険が必要ではないかというのである。重要な指摘であり今後の検討を要すると考えていたら、今回、労山全国連盟の新特別基金で新たに「行事主催者プラン」が立ち上がっている。詳しくはhttp://www.jwaf.jp/を見ていただきたい。
最後に、今回の事故をとおして中川が痛感したのは労山大阪府連盟のパワーの健在ぶりであった。2011年11月12日の山野井泰史さん講演会で800名の会場をいっぱいにしたあの熱気を、中川は今回の事故の捜索のパワーと同じだと感慨深く受け取ったのである。このパワーをプラスにつなげたい、その願いをこめて事故防止に向かいたい。