大阪府勤労者山岳連盟東日本大震災第6次復旧支援報告

                     理事長・6次隊CL  園 敏雄

 

日 程 2013726()30()

参加者 きたろうHC8名、泉州労山2名、大阪ぽっぽ会2名、山の会こもれび

2名、山の会カランクルン1名、八尾山の会1名、女性HCハイジ1

白峰山の会1名、HCteruru1名、吹田労山1名、淀屋橋労山1

目 的 石巻地域ボランティアセンター管内の生業支援

現地コーディネーター  石巻労山 岡 良一氏

 

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 21時前にはいつも通り全員揃い、多くの見送りを受けて今回もレンタカーマイクロバスで元プロドライバ−喜多さんの運転で一路石巻へスタート。

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順調に高速道路を走り抜け10時過ぎには石巻に着く、湾岸沿いの道路に入ると未だに解体されていない被災住宅が点在し311の面影を残している、初めて参加された方には生で見る初の現場である。一路日和山公園に向かい公園から石巻港、北上川沿いの石巻市内の街並みを公園に設置された被災前の街並みの写真と見比べながら望む、また公園にいらっしゃった公園下の街で住まいされていた被災者から現状や当時の様子をお聞きする。今日は1日主な被災地を見学する予定、この後は女川町へ、道中の不便な山中に点在する仮設住宅を見て買い物なんかどうするんや、こんな不便な所に建ててと被災者に変わり愚痴をこぼす。女川町庁舎では標高20m近くまで上がってきた津波の高さに驚き、未だに残している津波で倒れた3階建てビルを見て津波の力を知る。5次の時と変わっていたのは港の施設が一部復旧し、水揚げに接岸している漁船の周りを沢山のカモメが飛び交っており復興の息吹が垣間見えたことだ。

 次いで雄勝町へ、ほぼ更地化しており重機が動いているくらいで人影は無い、道路沿いに作られた花壇と中学生が立てた支援感謝の横断幕を見学、此処の公民館の上にバスが残っていたんだよと3次頃の状態を話す。ここから大川小学校は15分ほど、大川小には引きも切らずにお参りする方が絶えない、とっくにお昼の時間は過ぎていたが参加の皆さんは気にもせず墓標にお参りした後、被災の現状をつぶさに見学されていた。ここから岡さんから是非行ってみてと言われた南三陸町へ、リアス式海岸沿いの国道を北上して、職員が命がけで津波からの避難を呼びかけた防災対策庁舎へ、こちらも多くの方が引きも切らずに見学、お参りに訪れている。鉄骨だけの無残な姿と変形した外部階段が津波の規模の大きさを物語る。その頃よりガスがかかり初めての地で地理も良くわからないので石巻市内へ戻り、入浴、食料品の買い出し、スーパーを探すのに北上川沿岸の商店街へ入りなかなか復興して行かない現状を見た。買い物を終え宿舎水沼東部構造改善センターへ向かう、岡さんから今回もご飯や、野菜の差し入れを頂き申し訳ない限りだ。夕食時には岡さん始め石巻労山の会長、会員さん、宮城県連女性委員長から震災時、その後の仕事の苦労などを話して頂き交流した。



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今日、明日とボランティア活動、今日の活動場所は日和山麓に建っていた門脇小学校前に地元の小中学生や、ボランティアに来た各地の子たちが造った花壇周りの雑草刈りと一部瓦礫の分類撤去、この活動を支えてくれているNPOボランティア法人「JEN」の伊藤さんにガレキ分類の方法について説明を受け9時頃より作業開始、現在ガレキは15種類ほどに分類しなければならない、大変な作業を行政は指導する。草取りも花がすくすく育つように細かい物から、背丈ほどに伸びたものまでさまざま、天候も悪くなると思っていたが、予報に反し良い天気で作業日和、爽やかな気温で21名の作業がはかどる。午前中で終わるつもりだったが午後も引き続き作業を続行、かなりの雑草を取り払い、新しく花も植え花壇の見栄えも良くなり、瓦礫を積んだトラックの荷台も山盛りとなった。現場で石巻焼きそば屋を営んでいる尾形さんが作業後クーポン券を持っている市内の「元気の湯」へ案内してくれ割引サービスを受けて入浴する。夕方には宿舎の和室で区の役員さんの会議が行われその後ご挨拶を頂く、夕食時のテーブルには尾形さんから頂いたカツオ(捌いたのは淀屋橋の安助さん)の造りがデンとのり素晴らしい酒の当てとなる。勿論女性陣が中心となって作って戴いた美味しい料理が山ほどあったことは言うまでもない。


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 今日は地元の水沼山の整備、山頂公園に植えたツツジの周りに伸びた背丈ほどの雑草刈り、目印になる竹も隠れ急斜面でもあり大変な作業、男性陣は大鎌を振りおろし女性陣は中くらいの鎌でツツジに絡み付くツタなどを刈る。岡さんが操る草刈り機の作業量と21名の作業量とが同じくらいか?9時前位から作業を始めたが30分もすると疲れて休憩を繰返す、下山時間も考えて、また岡さんの農作業も有るので午前11時には終わるつもりだったが疲れ切ったので、それより15分ほど早く「終了〜」と声を掛けるとすぐさまハーイと返事が返ってきた。作業現場を見るとそれなりに小奇麗になったか納得させ下山、昼食後は市内の本屋へ向かい震災を記録した本を買い求める。その後はお楽しみの入浴、万石浦に立つ観光ホテル「華夕美」へ、湾を望む露天風呂に浸かり作業の疲れを癒やす。今日の夕食と明日の朝食材料を仕入れセンターへ、今夕も岡さんが来て下さり震災当時のDVDやパワーポイントで石巻労山会員の被災状況などをお話し下さる姿に皆さんが釘付けとなって聞いている姿が印象的だ。


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 今回の支援で初めて地元の登山を計画、これも、いつも岡さんがこちらの山に来てほしいという想いに応え、また登りたいという声に応えた企画、帰り道に有る安達太良山登山の為2時に起床し220分頃宿を発つ、石巻駅で2人を降ろし一路奥岳温泉登山口へ向かう、高速道路の夜間工事で通行止め区間も有り時間を食って5時半頃登山口着、9名で登山開始、何とか雨は止んでいたが山頂は雲の中、緩やかな馬車道を上りきった所が勢至平、沢沿いの道に出ると閉鎖されたくろがね小屋、ここを過ぎた辺りからポツポツと来だした。そこからは急な登りとなる峰の辻で時間が迫っていたが登頂をどうするか迷い結局下山、そこでまた道を誤りロスし表登山口へ軌道修正、下りは登山道が川になるほどの降雨、何とかゴンドラに乗り1020分頃、ようやく皆の待つバスに着いた。此処からは一路大阪へ予定より遅れたが21時前には帰阪できた。

【まとめ】

今回も初めての方が11名もいらっしゃり、支援の輪が広がっていることを感じる、

とりわけ20代の参加者が有った事、そのために休暇を申請してでも参加してくれた事に青年の意識の高さを感じさせて頂いた。被災地支援に行って、見た事、聞いた事を岡さんの仰ったように会の仲間や友人にお話しし、伝道師となって頂けたらと思う。現地は、瓦礫が減り、更地が広がっているが、石巻港近くの道路沿いには水産加工会社が営業を始め出していた。

 住宅は新しい復興住宅が建っている様子は無く、商店街も被災したままの所が多数残っている、今後も復興支援を続けて行く想いを改めて感じているが、生業の支援や、被災された方の思いに寄り添った活動を続けて行くことになるだろう。

 最後に、いつも野菜やお米を差し入れて下さる石巻労山の岡さんには申し訳ない想いでいっぱいである。それに見合う活動を現地でも大阪でも続けて行くことが私たちの務めだろう。またいつも送り出して下さる大阪の仲間にも感謝の気持ちで一杯である。今後ともご支援のほど改めてお願い致しまして報告とします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  *  各参加者の報告について、データでいただいたものは機関誌部で五十音順に並べ変え、

原稿でいただいたものにつきましてはそれに続けて掲載しております。 ご了承ください。                

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大阪府連主催第6次東日本大震災復興支援活動に参加して

(石巻地区)7/2630

                        きたろうHC  石野 博良

 

1次支援活動(2011728日〜81)に参加して、約2年を経過したがひと口に言って復興はなかなか進んでいない。

 震災発生後初めて行った時は道路の寸断、北上川にかかる新北上川大橋は橋げたの一部が流失、又、交差点では壊れた信号機の下で警察官が交通整理をしていた。一方集落は流され町全体が埃っぽく悲惨な状態だった。

 2年経過し確かに瓦礫類は撤去され、至る所に山積みされていた瓦礫類も処分され整理されていたが、従前から住んでいた人たちが、いつになったら戻って来られるのか住居の復旧は全く進んでいない。 

今回の支援活動は

1.震災被害を受けた門脇小学校前に有る「花を咲かせよう」を合言葉に子ども達が造った花壇の周りの雑草刈りと一部瓦礫の撤去

2.支援活動時宿泊場所としてお世話になっている(水沼東部構造改善センター)水沼地域の里山、水沼山に昨年5月植林したツツジの周りに伸びた雑草刈り

 

どちらも中腰で慣れない作業のため疲れたが、復旧・復興への道程は遠く今後とも支援活動が必要と考えられる。

 

 

石巻市地域震災復旧第6次支援ボランティアに参加して

泉州労山:大西清見  

 

被災地

726日〜30日、大阪府勤労者山岳連盟の石巻市地域震災復旧支援ボランティア(第6次)に行ってきました。私の連盟ボランティアへの参加は4回目ですが、今回のボランティアの目的の一つに「その後の復旧の実状が知りたい」「石巻や福島で放射線測定器でデータをとってみたい」「東北の山(安達太良山)に登ってみたい」と考えてみました。ボランティアの参加者はマイクロバス運転手・喜多幸男さんを含めて21名、総走行距離2200qの長い復旧支援の旅となりました。

石巻市周辺の被災地は瓦礫の撤去は済んだものの、瓦礫の分別処理や更地の復旧はまだまだ、気が遠くなるほどの現状です。しかし、公園や町中で出会った東北の人は思っていた以上に明るく、話しかける人にも「震災に負けない、絶対に復興するぞ」という心が伝わってきました。27日午前10時頃に石巻に到着、この日は、ボランティアは初めての方がおられたので石巻市周辺の被災地を見て回りました。
 女川町の旧市街地は横倒しになったビルがまだ放置されたままでした。そのビルの一つが、江島共済会館で、町は津波被害の研究資料として保存する方針だそうです。この女川町を襲った津波は18mと言われ、海沿いにある女川原発もわずか1mの差で助かったようです。

生徒と先生88名の犠牲者を出した石巻市立大川小学校、この位置を示す古い表示板が立っていました。「北緯38度、東経141度、海抜1.12m」と。311日の大津波は、新北上川を5qも遡って、大川小学校の側の大堤防(高さ5m位)も越えてやって来たのです。小学校の野外ステージの外壁に卒業制作の宮沢賢治の「雨にもマケズ…」がありました。その奥には、さらに大きな被害を受けた校舎がそのまま残されています。(写真左)
 今回は南三陸町にも足を延ばし、赤い鉄骨だけになった防災対策庁舎を見てきました。この防災対策庁舎は防災無線で「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」と住民に避難を呼びかけ続けて、津波の犠牲になった遠藤未希さんの職場でした。南三陸町の中心部の大半が、瓦礫撤去後の更地のままで復旧の目途は立っていないそうです。(写真右)

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         大川小・野外ステージの外壁   南三陸町・防災対策庁舎

交流

727日、28日、29日の夜は石巻市水沼東部構造改善センターで交流会。コーディネータの石巻労山の岡良一さんや菅野正雄さん、石森康一郎さん、仙台からも女性委員会の森谷金子さんも来られ、夕食を兼ねて交流会をもちました。特に石巻労山の方からは、3.11の被災状況や現状復興状況をお話しいただき、復興にはまだまだほど遠いことを痛感しました。水没した市街地を首まで浸かって脱出されたことや石巻労山の事務所や資料の消失なども大津波の猛威を知ることができました。これからも東北の労山の方とも情報交換や交流を深め、被災の復興に協力していきたいものです。

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    夕食の準備はセンターの厨房で   石巻労山の方と交流

 復旧作業と安達太良山

復旧支援活動は石巻市門脇町・南浜町の瓦礫分別作業と「花を咲かせよう、勇気の花」運動での花壇の除草作業、北部の水沼地区のハイキングロードの整備でした。石巻市南部の海岸部は元住民の家の再建は許可されず、放置のままの更地です。まだ残された瓦礫分別と除草、草刈りの作業をさせていただきました。瓦礫処理はJENJapan Emergency NGO)の2人の方の指導で、今では15種類にも分別しなくてはならない作業で期限は来年までとか。ハイキングロードは被災後、荒れ放題になった登山道の除草などの「撫育管理」という作業でした。ハイキングロードの中央に位置する水沼山は標高375m、福島第一原発から約100qです。大阪から持参した放射線測定器は0.14μSv/hを示していました(大阪は0.05μSv/h以下です)。730日、帰路で登る予定であった安達太良山は山頂直下まで、風雨と時間切れで登れませんでした。くろがね小屋での放射線測定器は0.14μSv/h、近くの高速道路のSAでも同じような数値です。また、近い日に磐梯山とあわせて安達太良山に登ってみよう。

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ハイクンロードの作業、震災後の  登山道で出会ったギボシも美しい

雑草とツタは伸び放題でした

 

 

6次東日本大震災支援活動に参加して

                        八尾山の会 笠井ふみ子

 

7/26~30日石巻市地域ボランティア(6)に行って来ました。参加者はマイクロバスの運転手含め21名。片道13時間総走行距離2200qの本当に遠い道のりでした。運転手さんは現地移動も、ずっと安全運転に心がけしてくれましたが1人で大変だったと思います。

27日朝10時頃に石巻に到着。今回初めての方が約半数居たので

日和山・大川小学校・女川町病院など被災地を見て回りました。

最初にまず感じたのは前回参加した時は商店街も閑古鳥が鳴いていたし信号も無。見当たす限り真っ黒の更地だったのが今回田畑には作物が植えられ,あらゆる所に花が咲き乱れていて凄く嬉しかったです。

やたら、ヒマワリの花があちこち多かったので地元の人に聞いたら海水の被った土でも強い花で育てやすいそうです。

大川小学校野外ステージの奥には更に大きな被害を受けた校舎が今も無残に残されていました。

28日南浜野町門脇小学校周辺瓦礫撤去の分別及び草刈

 私は分別の作業に付いたが大きい物は既に撤去されていましたが石・木片・タイル・ガラス等などを除去しました。思い出の物は回収して下さいと係の人に聞いていたので気にしながら作業を進めました

クリニックの表札の周りにはピンセットなど。。。ガラスの山からは新品のマネキュアが出たりと、その時の生活が見えてくるようでした。

作業の休憩時間を使い復興プレートに自分の思いをメーセージに託しボードに打ち付けてきました

1日の仕事を終え地元では花を咲かそう運動が広がっており「頑張ろう石巻」の花畑に労山のブースを貰ったので皆で花を植え花壇の廻りの草むしりをして終了しました。

29日石巻緑のハイキングロードの草刈り作業

 石巻労山岡さんの指導のもと私の背丈ぐらいある雑草を取り除くのは大変な作業でした。5月にも東京の労山がしてくれたそうですが・・

午後からは南三陸町にも足を延ばし赤い鉄骨だけになった防災対策庁舎を見てきました。この防災対策庁舎は報道でも取り上げられた防災無線で、津波が発生しました。高台に避難して下さいと最後まで住民に呼び続けて職員が命を落とした場所でした。今でも沢山の方が訪れて手を合わせていました。

30日朝2時起床で水沼構造改善センターから車で3時間移動して希望者のみ安達太良山登山。以前登ったのにすっかり忘れていました。

頂上真下で悪天候になりアタックは中止して下山したが道が川のようになり歩くのに神経を使いました。

今回も体に感じる地震がありました。ボランティア活動する中で2日間に渡り石巻労山の岡さんがスライドなど見せて説明してくれました。「見て・聞いて・伝えて」この三点を私たちが各会・クラブの仲間に伝える伝道師となり活動して頂きたいとおっしゃっていました。

2011311あれから25ケ月確かに表面的には復興が進んでいるように見えますがまだまだ建物が壊れたままの状態で有ったり海岸沿いの仮設住宅も人間が生活するにはそれはそれはひどいものでした

そういう状態の中でも玄関の前には花の鉢植えを置いてるのを見て涙が止まりませんでした。

復興にはマダマダ程遠い事を痛感したと同時に、移動に時間がかかる為作業も思うように出来ませんがこれからも体の続く限りボランティアに参加していきたいと思います。

 

 

第6次震災支援ボランティアンに参加して

女性HCハイジ;川上洋子

  

家庭状況の変化の中で漸く災害支援ボランティアに参加することができた。

阪神淡路の震災時に感じたのはこの目で見ることで、映像を通じて見るのは、「視た」ことにはならないように思ったのが今回の参加動機である。

 

26日夜半に乗ったバスは、夜明けを過ぎて朝食をコンビニおにぎりで済ませたころにようやく目的地周辺にたどり着いた感ありで、やっぱり遠かった。

 

初日には被災状況をバスに乗って見学する。あったものがなくなり、様々な映像で見たことが現実であることを再確認しつつ回る。再建や再開発とは程遠い状況の中で、未曽有の災害の現実に呆然とし、我が身ならと思いが胸にこみ上げる。広い荒地にはかつて家々があり日々の生活の営みがあったのに、今では只々草や残骸があるのみで、花壇があちこちに花開き人々の思いが心を打つ。

 

これら草地とハイキングロードの整備が我々の作業であった。草刈りの作業中、墓参りの法要後のお寺さんは状況を聞いてくださったり、帰りに立ち寄った温泉でモタモタしていたら、おばさんが・・って私より若いのだが・・どちらから?との問・・大阪からですと今回の経緯を話すと、ご苦労様の声とともに自分も九死に一生を得て、車で被災しその後水の中を逃げたことや偶然見上げたビルの3階の人たちに助けられたと事を語ってくれた。また今度は入浴中、おいしい魚屋のありかを聞いた方も、自身は何とか無事だったが周辺での被災状況を語ってくださった。生死と紙一重の人々の様々な思いを聞きつつ、こんなに大きな災害の後も日はのぼり、日々の生活は待っていることを実感した。

 

石巻労山の岡さんからの山盛りの野菜やその他の皆様、宮城県連の女性委員長など多くの方々の厚意に感謝、感謝・・何ほどの役に立ったかは疑わしかったが、行ってよかったと思っている。

 

 

第6次東北復興ボランティア 感想(2013.7.2630)

きたろうHC 木村 順一

 

乱暴な言い方をすれば、復興は金と人と物を注ぎ込めば出来ると思っていた。でも、震災復興に関係の無いところで増税した予算が使われていたり、予算の35%は使われていないとか、すこしづつ景色は変わってはきているのだけれど、街はまだまだ津波の爪あとを残している。多くの仮設住宅は残ったままだし、商店も仮設だし、十津川では14棟の村営住宅の建設が決まったとか聞くと、もちろん災害の規模や状況はちがうのだけれど、スピード感が無いなあなんて思ってしまう。

よく言われることだけれど、死者の声を聞き、生きる者の声を聞き、歴史に学び、正しいことを選び、未来に向けて何を造って行くのか、その作業を民主的に進めるための時間なのかな?そうだったらいいのだけれど。

今回も、岡さんをはじめ現地の方々に差し入れをしていただき、お世話になりました。カンパをいただいた会員の皆様、一緒に軽口をたたきながらボランティアを頑張った皆様、おいしい食事を作っていただいた皆様、ありがとうございました。

 

 

東北復興ボランティアに参加して(726日〜30)

                      山の会こもれび 小林 佐智子

 

 一年前に比べて町中は整備され緑も増え、花も多く植えられて癒されました。

仮設住宅の周りも花や野菜等々が見られました。一歩町から離れますとガレキの山々、心が痛みます。

 今回は山の大先輩の方々が沢山行かれましたので、色々と学ぶことが出来たり初体験も数多く出来ました。

@石巻市門脇町でガレキの仕分け、草引き(数人で歌を唄いながら)等々

A水沼山ツツジ公園では斜面に伸びた草を刈り、ツルを引き離す仕事をしました

 全日ゆっくり宿泊所を出発、早めに作業が済み、夜は岡さん始め現地の労山の方々に色々とお話が聞けました。

 体験した事が無駄にならないよう数多くの人々に伝えて行きます。皆様本当にお疲れさまでした。有り難うございました。

 

 

第6次東北震災支援ボランティアに参加して

山の会こもれび  佐々木雅博

 

昨年に引き続き東北石巻支援に参加させてもらいました。

瓦礫の山は片付いていましたが、広大な空地が広がり所々に倒壊ビルが墓標のように残されていました。

今回の作業は1日目、草ボーボーの空地に花壇を作るボランティアを支援する草引きを行い、2日目は労山らしいボランティアとして水沼山に植えている「つつじ」の「介護」でした。つつじの周りに背丈以上に伸びた草木を鎌で刈るのも大変でした。

それにしても石巻労山の岡さんの姿は「被災経験を語り継ぐ、次の大災害に生かしたい」の使命感に満ちていました。DVDと大型パネルを使い話しかけ東海・東南海地震の被害削減に役立てて下さいと熱心に語っていたのが印象に残りました。

そうだ! 次に大阪の順番かもしれないのだ。

 

 

第6次東日本大震災復興支援ボランティア感想文
                         HC teruru 頭鬼 春菜


 東日本大震災から2年半、震災の被害や復興に関してはテレビからの一方的な情報のみでした。震災以降、「テレビから得る情報は一部分で、知らない事も多いだろう。一度自分の目で見て、感じて、考えたい」と思うようになり、今回機会に恵まれましたので参加させていただきました。
 初日は巨大な津波による被害が、今だに残っている被災地現場を見学しました。たくさんの生徒や教員が流された大川小学校や、避難を呼びかけ続けたために職員が流された防災庁舎、高台から見る石巻沿岸部の荒れた野原など、私の日常生活とはかけ離れた光景に言葉が出ませんでした。大川小学校の校庭には、宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ 風ニモマケズ。。。」という詩が書かれた壁があり、そのボロボロになった壁を見ていると、子供たちの元気に遊んでいる姿が想像出来て、涙が出てきました。
 夜は、石巻労山の方々がご自身の被災体験を話してくださいました。話してくださる体験談は、「津波に流されたけど運がよく屋根の上に乗ったから助かった」など、テレビでしか聞くことが無かったような内容でした。
 ボランティアとしての活動は、瓦礫のゴミ分別や草刈など、現地のNPO法人の方々とわずかな時間でしたが無事に行うことが出来ました。しかし復興へは多くの障害があり、元通りになるには長い年月がかかると聞きました。
 今回のボランティア活動に関して、参加する前は「役に立つ活動が出来るだろうか」と活動することばかり考えていました。しかし活動を終えた今、「活動を通して被災地・震災について考える」ことの大切さを感じています。活動で役に立ちたい、と思っていましたが、実際には現地から得るものや学ぶものが多かったように思います。
 現地を見て、色々な人から話を聞いて、多くのことを考え、感じることが出来ました。目を背けたくなるような現実を受け止めて前に進んでいる被災者の方々と触れ合い、私が持って帰ってきた宿題は、「人は何のために生きるか」という大きいものです。上手く表現できませんが、「人と人との繋がり」が生きていく糧になるのかな、と今は感じています。がしかし、まだ私の中ではパズルのような状態です。ですので、いつかこのパズルが完成して自分なりの答えが見つかるといいなと思います。
 ボランティアという形で、貴重な体験をさせていただき、本当に感謝しています。ありがとうございました。

 

第6次東北ボランティアに参加して

                   きたろうハイキングクラブ 田中勝己

 

昨年の第3次ボランティアに参加してから、1年4か月になります。

高台にある病院は診療再開、集められていた瓦礫の山はなくなり、車の山は3分の1くらいに減っていた。しかし更地になっているところでは、どんどん家が建って人々の暮らしが戻っているかと期待していたが、更地のままのところが多いように感じられた。また、仮設住宅が増えているように見えた。復興ということではまだまだの感じ。

ボランティアの作業のついてもむつかしいところに来ているように思います。今回はボランティアが中心で山登りがちょこっと。仮に次回も取り組む場合は、山登りが中心でボランティアもちょこっとやりますでいいのではないですか。東北のことは忘れない、現状を少しでも伝えていく、そんな風に思っています。

 

 

災害復興支援に参加して

                         吹田労山  中筋 好子

 

 以前から気になっていた震災復興支援に初めて参加しました。予想はしていましたが、現地を見て、被害地域の広さ、人々の心に残る傷に心が痛みました。

支援する側の(少しでも作業を手伝いたい)という思いと、被災地の方々の(もっと現地を見て欲しい、話を聴いて欲しい)という微妙に食い違う思いを感じました。

 石巻労山や地元の方々による被災当時から現在までの状況の説明・分析・今後の取り組みは当事者ならではの貴重な内容でした。

 昭和2112月の南海地震では、故郷の串本に6.57mの津波が来て実家は床下浸水でした。次の南海地震と東南海地震が重なると町は壊滅します、前回の津波の到達は10分以内でした。

故郷に帰る度、地元の災害対応の遅れや津波から逃げ切れるかどうか妹と話す事が多くなり、安否を確認する方法等具体的な取り決めが必要と思っています。

 今回の石巻で得た教訓を故郷に持ち帰り、来る地震・津波の対応に役立てたいと考えています。

 

 

6次ボランティアに参加して

淀屋橋労山 前田安助

 

震災後の報道を見てしばらくすると繰り返しされる映像を見なくなりました

今も見たくありません

ボランティアには行きたいと思っていましたが行けずに過ぎましたが今回時間他チャンスもあり6次ボランティアに参加できました

今回石巻に行きましたがその他の地域の事はあまり知りません

地震の被害にあった家はもう復旧がだいぶ進んでいるように思いましたが、地盤沈下が1メートルもあると聞くとこれからかなともおもいます

津波被災地の残骸はおおむねなくなっているように思いました

しかし復興は全く進んでいないようです

地震の被災地、津波の被災地。その中でも危険地域に指定された地域は公園になることが決まっていて戻り住むことも出来ないまま止まっているようでした

僕のボランティアは汗を掻くことが目的なのでやれたかなと思って帰ってきました

企画を進める方たちのご苦労に感謝します。ありがとうございました

 

 

6次ボランティアに参加して

                    山の会カランクルン 宮本 義人

労山ボランティアにはじめて参加しました。宮城県下の被災現場をこの目で見たのもはじめてです。ただ、福島県南相馬市の津波被災現場へ は何回も案内されていますので、津波の恐ろしさにあらためて感銘を受けることはなく、自分の感覚が麻痺されてしまっているのに驚きます。 南相馬市の津波被災現場は、立入禁止措置が解除されてはいるものの放射線量が依然高く、ボランティアも見学者もいなくて、ガレキは除去さ れていても復興の気配はまったくありません。
 草刈り作業をした水沼山の山頂で、3月時点での放射線量が
1.2μSv/hだっ たと聞いてびっくりしました。放射線管理区域として法令で定めている基準(3か月間に1.3mSv)を優に超えています。北方へのプルームが福島第一から140Kmも離れたところにも影響しているのですね。 その後は測定していないとのことですが、単純計算で年間10mSvの そんなところをハイキング道として整備していいものなのか気になります。(以上)

 

6次東北震災復興ボランティア参加の感想文

  大阪ぽっぽ会  村崎和孝

 

阪神淡路大震災では、43号線の高速道路の倒壊、三宮の中心街の火災炎上、その他民家もふくめて多大な家屋の倒壊が、近代日本の大都市を壊滅に導いた大惨事として全世界に衝撃を与えましたが10年以上たって現在はほぼ完全に、いや以前より活気に満ちて復旧しています。

しかし、東日本大震災の場合、「原発」の事故復旧との絡みもあり、「津波」の災害が「歴史的に繰り返された」ことから住環境の地理、地勢的なせめぎ合いを含めて現地の復旧計画にも時間的な逡巡をもたらしている状況で、、これからどう進むのか目標、手段が立てづらく大変難しい所です。

 

震災から2年半経過後のボランティ活動ってどんなことをするのだろう。

天気予報では40〜50%の降雨確率、気温も低め、、雨の中でも作業はするのだろうし。カッパ来て、長靴はいて、、2日間の作業にどのような装備で臨んだらよいのかが参加する上での心配事でした ⇒ そして大型のリュックサックは満杯になりました。

【ボランティアに行く前は、なにか正業の助けが、たとえば農家の土の入れ替えとか、漁業の網の修理とか、それとも労山関係でハイキング道の復旧整備とか、、、やるのかな〜と考えていましたが、、、】

作業1日目の7月28日(日)午前中はNPO法人の指導のもと門脇小学校近くの花壇の脇に置かれた「瓦礫類」の分別と積み込み作業。午後からはその花壇の雑草抜きと周辺の草刈り作業でした。

  【とっても良いお天気で、昼から陽射し良くなりました】【スニーカ着用】

作業2日目の29日(月)午前中は「宮城労山の岡さん」の指導で宿舎の水沼地区にある「水沼山」の山頂付近の「ツツジ園」の蔦や萱の刈り込み、除草作業でした。

  【出がけは小雨でしたが、作業中は曇り空でした】 【長靴着用】

夫々、地元の正業の復興、復旧とは程遠い作業でした。NPO法人と宮城労山の岡さんの説明では、それぞれ地元の子供たちの希望にささやかな灯りを燈し、心の支えとなるように取り組んでいる活動との事でした。

ボランティア作業を終わって、宿舎の「水沼東地区構造改善センター」で夕食を共にしながら、宮城労山の方々と交流し、地元水沼地区の地区長さん、役員さんと交流を共にして感じるのは、「津波」の対策がなかなか建てにくい、とは云え今年の夏の天候異常に対処しながら、日々の暮らしでは少しずつでも復興に取り組んで行かなければならない。苦渋の中にも、地道な東北人特有の粘り強さで頑張っておられる、と感じました。

 

 今回のボランティアに参加して地道な作業に御奉仕して、また被災の甚大な地域を訊ねて、その場所で語り部の体験談に耳を傾け、人間と自然との関わりに想いを致す時、これからも被災地の現実、現状から眼を背けることなく、心からの支え合い、励まし合いを続けることが日本人一人ひとりに求められていると感じました。道路や、街並み、の復旧工事や巨大な防潮堤工事など、目に見える復興、改善も大事ですが、復興の遅れに心を痛めがちな人達、特にこれらの遅れを目にしながら育っていく子供たちにも目を配り、心を配って、絆を深め続けることが必要かと感じました。

【お盆も今日で終わり、815日現時点で第95回高校野球夏の甲子園に東北代表の6校中5校が残っている。このことが東北の被災者の老いも若きをも、励ましている、、、、と私は感じた。。。。そして日本中の皆がそう感じた、だろうと想う。】

 

 終わりに宿舎の夕食、朝食を頂くたびに、今回のボランテイアは労山の皆さまの支援カンパで支えられていることに、感謝の気持ちを篤くしました。これからも息長く支援を続けていきたいと思います。

 

 

第6次石巻支援ボランティアに参加して

きたろうHC 吉川 温子

 

以前から労山の方々がボランティアに行っていたので私も行こうと思いましたが、こんな婆さんが行っても皆さんの足を引っ張り、かえって迷惑をかけるだけやネー、と思いながらいましたが、何度も行っている人達もいるのに何かひとつ位は私も役に立ちたいと思い決心して参加させてもらいました。夜行バスではほとんど眠れずに、翌日は石巻市内や港の見学です。日和山から眺めた石森章太郎記念館の当たりは少し建物がありましたがまだまだ更地で草がぼうぼう、でした。港では大きなビルが横倒しのままでびっくりしたり、そしてあの大きな北上川を津波が登ったのですからひとたまりもありませんね。一番悲しかったのは大川小学校です。何度もお話で聞いたり、テレビを見たりしていてもやはり涙が出ます。少々のことでは泣かない私ですが、子供達は父や母、お爺ちゃん、お婆ちゃんなどを大声で叫びながら津波に呑まれたのですね。もしこれが自分の子供や孫だったら、と思い胸が張り裂けそうでした。お線香や千羽鶴等がたくさんおいてありご冥福をお祈りして、その地をあとにし宿舎に向かいました。そして石巻労山の、岡さんからのお話しやビデオでの説明など、又町長さんからの盛沢山の体験談などを聞いて過ごしましたがビデオを見て又2年前に雪が積もり灯油がない所での避難生活を思い出しほんとうに大変な思いをしての長い避難生活をされご苦労されたんだなーと思い、頭が下がる思いでした。 28日は2班に分かれましたので、私は瓦礫の撤去作業のほうに入りゴミの分別です。ゴミの仕分けをしていると、又その中に女生徒が使っていたと思えるような筆箱が見つかり、この持主はどんな生徒やろう、何をしていた時だろう、と考えてしばし呆然とする有り様です。政府は復旧、復興なんて言うばかりで全然進んではいません。アベノミクスやオリンピックがなんやの!義援金をどこかで使ったりして国はなにをしているんや!と言いたくなります。私がここでぼやいても何の役にもなりませんが、そして29日は水沼山のツツジ公園の草刈りです。公園とは行っても急斜面で足場が悪くて自分で刈った草で滑りそうになり、怪我をしないようにと思い神経を使いました。たとえ瓦礫のひとつでも又草刈りのひとつでもできたので、行かないでいるよりは良かったと自分なりに思っています。機会があればもう一度元気なあいだに参加させてもらいたいなーと思っている所です。ありがとうハウスでは大阪山の会から来ましたよ、必ずまた良い事が有るからネ。と絵馬に自分の思いを書いて残す事が出来てよかったです。あんまり役にはたちませんでしたが、色々と御指導して頂いた園様、又ご一緒させていただいた皆様、本当に有難うございました。

 

木村さん石巻ボランティア 7月26日〜7月30日まで 035