大阪府勤労者山岳連盟東日本大震災第三次復旧支援報告
府連理事長 園 敏雄
日 程 2012年3月16日(金)〜20日(火)
参加者 きたろうHC10名 労山つりばし5名 泉州労山3名 くすのき山遊会 2名 山の会こもれび2名
KONK1名 OAR1名 吹田労山1名 豊中労山1名 YMCC1名 労山ひまやま1名
八尾山の会1名 大町労山2名(元泉州労山、カランクルン会友)
目 的 石巻市内農地のガレキ撤去
現地コーディネーター 石巻労山 岡良一氏
【3月16日(金)】
集合時間より早く集まる参加者が多く定刻22時丁度マイクロバス1台と乗用車1台に分乗し森ノ宮を出発。ネ
ットで磐越道がチェーン規制していないのを確認していたので予定通り北陸道回りで一路石巻を目指す。
【3月17日(土)】
新潟、福島に入るとさすがに路肩には雪も見え気候の厳しさを知ることになるが東北道では雪も消え仙台手
前で渋滞に有ったため石巻には12時を回って到着、食事を後に回して市内や港を見渡す日和山公園へ、初
めての参加者が多く被災状況や空き地に積み上げられた瓦礫の山を見て茫然としている姿が印象的だ。雨が
そぼふる中女川地区へ移動、高台に建っている医療センターの駐車場から町を眺めると前回に比べてかなり
更地化されていたが、3階建てのビルが数棟倒れたまま残っており津波の凄さに一同息を呑んでいた。続い
て雄勝地区へ、前回屋上にバスが載っていた公民館ではバスは降ろされ建物の横に置かれていた。最後に
大川小学校へ。多くの児童と先生が津波にのまれ、未だに数名の子どもが不明の状態を知った追悼の方たち
がたくさん観えている。献花し線香をお供えして各自で追悼の意を表す。なかには悲しみのあまり涙にむせぶ
仲間もいる。入浴後夕食、19日の昼までの食材を購入して今夜の宿、水沼構造改善センターへ。夕食を頂き
ながら先着の千葉労山の仲間と一緒に初めての参加者が多いという事で、石巻労山岡さんと阿部石巻地方
振興事務所担当次長から津波の状況を映した映像を流しながらお話を伺う。明日は牡鹿半島沖金華山の作
業であることを伝え床に就く。
【3月18日(日)】
金華山へは船で移動の為、第一便の出る9時に合わせ、牡鹿ボランティアセンターでの手続き時間を見て8
時半には到着できるよう早めに水沼センターを発つ。ボランティセンター手前の前回作業した十六浜は、瓦礫
は無くなっていたが人影はなく、何も復興できてない感じを受ける。3艘に分けて金華山へ、宿舎には先着の
京都労山の仲間が待っていた。労山が全員集まった所で2日間の作業について説明、打ち合わせを行う。金
華山黄金山神社の水源池となるダムに積み重なった土砂と岩石の撤去作業だ。今まで以上の重労働となり、
高齢の方が多い大阪労山の面々にくれぐれも無理をしないようお願いする。先に作業を始めていた埼玉東松
山市の中学生ぐらいのボランティアの子たちと総勢60名程で土嚢に砂をつめて撤去作業を始める。お昼の休
憩時にはセンターが用意した2,000枚の袋がなくなってしまった。在庫は無く運ぶのにも船のチャーターに3
万円かかるとの事、昼食後は岩石の撤去とダムまで小型重機が入れるよう道路造りの2班に分かれての作業と
する。
気温は低いが天気も良く、力仕事でも汗はかかず厚着することもなく、仕事の環境としてはすこぶる良いせい
か齢をものともせず皆さん一生懸命に働いて下さる。お蔭で道路も順調に出来上がり、積み上げた土嚢、石も
どんどん減っていく。16時ごろに作業を終え宿舎に戻り神社の厨房を借りて夕食の準備、女性陣が美味しい
食事作りを担ってくれた。おかずはうどん入り豚汁など、美味しいのでご飯もおかずも瞬く間に空っぽに。食後
は京都労山とお酒、ビールと差し入れのつまみで交流会、お風呂は無いがアルコールと談笑で疲れを吹き飛
ばす。明日も重労働が待っているので早めに就寝、畳の部屋が暖かい。
【3月19日(月)】
希望者を募って4時半起床で金華山山頂へご来光を見に行く班、早起きはつらいので作業を始める前の時
間を利用して金華山を目指す班、それぞれに朝を過ごす。私は少しお酒が体に残っていたので宿で休むこと
にした。8時から作業開始、今日の作業も土砂、岩石撤去の続きである。作業も慣れてダムの土砂、岩石がど
しどし運ばれるが見た目は上っ面のみ底はなかなか深いようである。全体で2〜30pほど掘り下げた位、道路
は10mほど完成した所で、京都は10時30分発の船で帰るため9時半で作業を終え、大阪は2〜4便の船で戻
るので、あとひと仕事し10時20分に作業を終えた。風が強く波もうねり帰りの船は大変そうだがベテラン船長
の操舵で海上のジェットコースターは楽しく無事に鮎川港に全員到着。
先に着いた下窪さん達に大阪労山から牡鹿ボランティアセンターに寄付する土嚢袋2千枚を購入しに行っ
てもらう。その間に、センターそばの仮設店舗で地元産の土産や今晩の夕食材料の一部を購入。昼食は前日コンビニで購入したパンを三三五五に食べて頂きながら下窪さん達が戻るのを待つ。土嚢袋をセンターに届け道の駅上品の郷で入浴、2日間の汗を落とし疲れを癒やす。お隣の地元野菜市場で残りの食材などを購入し水沼センターへ、今晩は定番のカレーを頂きながら、17日には集中して聞けなかった岡さんのお話を聞きながら、メディアでは報道されなかった地元の方々が撮った貴重な映像を見て岡さんと懇親を深めた。
【3月20日(火)】
4時過ぎ起床、5時に水沼センターを発つ。ニュースで磐越道の規制がされていないことを確認し予定通り北
陸道経由で帰阪することにした。が、磐梯高原辺りで雪が降り出し乗用車はチェーン装着、お彼岸というのに
まだまだ冬型気圧配置が残る異常な気象だ。何とか無事にそこを通過し18時半には大阪に帰ることができた。
散宣言をしながら皆さんの顔を窺うと、疲れよりも満足感に満ちていたようだった。
《まとめ》
第3次支援には長野在住の会友も含め31名が参加し、現地を見、ボランティア活動をするなかで石巻労山
の岡さんがいつもおつしゃられている震災被災の伝道師がまた増えた。各会、クラブ、連盟で見た事、聞いた
事を仲間に伝える伝道師として活動して頂きたいと願う。多くの仲間が参加できたのも連盟各会が支援カンパ
の訴えに応え総会や例会で会の皆さんに訴えて下さったお蔭で、かつてないほどの多額のカンパが寄せら
れたからこそと大変感謝しています。
一度は参加したいと思っている方々の思いを背に、参加された皆さんは労をいとわず頑張っていただきまし
た。未だ現地の町村部や立ち入るのに危険な所には手が付けられていない状況です。今後も支援を続けて行きたいと考えていますので、是非ご応募くださるようお願いしたいと思っています。またご支援、ご協力の程宜しくお願い致します。
大川小前慰霊碑で献花、追悼 水源池の土砂、岩石運搬作業
水源池の土砂、岩石運搬作業2 積上げられた土嚢、岩石の山
雄勝の中学生作成決意の横断幕 千葉、宮城県連との歌声交流会
土嚢と石で道路造り
震災復旧支援第3次隊参加の感想 常任理事・佐々木雅博(豊中労山・山の会こもれび所属)
大震災後1年が経ちようやく被災地へ行くことが出来ました。
「何かしなければ」と仲間に募金を訴え街頭募金にも参加してきましたが自然の脅威を眼と耳で確かめることができました。
行き先が石巻だったことも積極参加の一因でした、長く勤めた会社の工場があった所で訪問の経験があり友人も居たからです。
大阪労山としては最大規模になり所属の豊中労山からも山の会こもれびからも参加があり現地の労山のほか京都や千葉とも交流できてよかったと思います。
5日間のうち復旧作業は正味8時間程度で貢献度は大きくなかったと思いますがこれも遠隔地の離島ゆえに仕方がないことでしょう。
今後永く続く復旧支援活動にも参加するつもりです。
自分から情報を発信してゆきます。
第3次東日本大震災支援ボランティアに参加して(H24.3.1〜3.20) <労山つりばし>
下窪義文
3次東北支援活動を会員に案内し5人の申出あり、内3人は2回目のとなります。特に感じたことは
・現地交通便の制約の中で1000㎥の土砂のうち1%でも除去できること
・人力作業の繰り返しで時間をかければ結果を出すことが出来きること
・現地の仮設店舗や道の駅で地元物産を購入し土産できたこと
・津波被害を教訓に今後の関東・東南海で予想される災害時の意識を高め個力の判断が必要と感じたこと
・仲間と一致団結し一つの目標に向かって力を合わせて発揮できたこと。
・今後とも息の長い支援活動が必要と感じました
丸山敦子
なかなかの重労働でしたが山屋の本領発揮を目の当たりにしました。日頃鍛えた体力、忍耐力、根性などが底力となり、少しでも被災地の役に立ちたいという個々の熱い思いが一つになって活動できたと思います。短い間でわずかな事しか出来ないのが心残りでしたが本当によい体験をさせてもらいました。
大井チズ子
瓦礫撤去は大分進み、石巻商店街も人の動きが見られ、前回と比べ少しずつではあるが、前に進んでいることを感じました。
これからも、労山の仲間と協力して、支援を続けて行く事が大切だと思います。
大阪労山で、このような取り組みをしていただける事に、感謝しています。
追記 長期ボランティアで支援活動している若者が「生活資金がなくなれば、続けていけない」の言葉が気になります。
田籠義行
今回初めて参加しました。
参加者が31名で大勢なのに驚きました。3月17日は石巻市、女川町の被災地視察でしたが、津波の傷跡が1年経過しても生々しく心が痛みました。18、19日は作業でしたが誰一人気を抜かず一生懸命作業している事に、感心しました。又活動が有るのならば参加したいと思っています。
追記 運転手(古都さん、藤浪さん、下窪さん)の皆さん、有難うございました。
今度は、一週間位でもいいですよ。
田籠早智子
初めての参加です
現地を見た時あまりにも自然の残した爪痕の力の大きさに胸が痛みました。年齢を問わず参加された皆様の復興支援に対する行動力や団結力は、自然が残した爪痕よりもはるかに大きな力を感じました。短い期間でしたが、参加された皆様の勇気 パワー 団結力を頂きました。今後色々な支援活動に生かして行きたいと思います。 皆様 有難うございました。
東北震災復旧第3次ボランティアに参加して きたろうハイキングクラブ 高桑昭夫
出発地:大阪森之宮 (多賀SAで合流)
日時:3月16日22時から20日19時
行先:宮城県 石巻市 鮎川浜 金華山 黄金山神社
内容:黄金山神社水源地の土砂、流石の排出と登山道の整備
1)現況の被災地の感想
沿岸部では震災直後のTV映像のような瓦礫は市中には概ね無くなり、震災前の区画に更地ばかりが目立ち、大きな造成地のように見えた。生活感がまだ感じられないし仕事の場である農業、漁業、産業、工業、商業なども同様であり復興はまさに今からと感じる。
2)ボランティア作業の感想
ボランティアが入り難い島という地域での活動には意義を感じるが被災された方のためにというモチベーションを高めるにはちょっと残念な地域とも思った。しかし、楽しく作業ができたのも被災地と隔離された環境下にあったためとも思う。なによりその和やかな雰囲気での作業が参加者間のコミニュケーションがうまくいき効率よく作業ができ土嚢袋が半日で使い切るほど成果もあがった。
3)宿泊・行程の感想
石巻、金華山ともに宿泊施設や食事作りも被災地のなかでは申し分の無い設備であった
しかし、食事担当は参加した男性が高齢化でもあり、ほぼ女性が請け負っていたのが気になった。食担も男女均衡で頑張らないといけないと思う。
バスには往路、復路とも半日以上の乗車で大柄な私には窮屈な座席であったがこれは予算との相談なので、先ずは目的のためには我慢、我慢と思いあらためる。
4)復興への感想
阪神大震災時でも辛い経験をされた多くの方の心が癒えない時期に再び同じ日本の東北でさらに多くの方が同じ辛い被災をされたことに本当に日本は大丈夫かとちょっと不安が過ぎりました。そして、初めて被災地を観てほんとに何とかせにゃならんと切実に思うしだいです。自宅に帰ってお土産を片付けていたときに被災地の工場や商店が閉まっていたことを思い出し、東北が元気になるための復興支援は農水産業や工業が興り、多くの人がまた働いて働いてもとの賑やかさを少しでも早く取り戻すことと思います。だから、私は現地産のものがあれば進んで購入するなどの本当に小さな支援ですがこれからもして行こうと思いました。最後に、この震災で亡くなられた方にあらためてご冥福を祈ります。 以上
東日本大震災 川柳 きたろうHC 神庭 勇
○雨の中 走るマイクロ プロ級だ
○日和山より 自然の力 人はダメ
○大川小 花束捧げ 黙祷す
○目が覚める 解っているけど 横着か
○土のう運び 重い軽いと 声かけて
○登り道 石とブナの木 鹿の糞
○海の上 間に合う日の出 金華山
○石運び 日ごろの動き 役立たず
○立ち止まり 鶴の一声 休憩だ
○横綱ども 大きな岩に 意地が勝つ
○Sさんの 裏はいろいろ 流石だね
○有難う 跡を汚さず 急ぎ足
山でつながる仲間との初ボランティア きたろうHC 風戸 星子
初めてのボランティア、少しはお役にたったでしょうか?
久しぶりの重労働に節々が痛くなりました。私が思ったことはボランティアに参加した人が私より年上の方が多く、山でも人生でも先輩で色々な人生があって今が有るのですが、若々しく行動して生きているなあと思いました。今も現役でバリバリに働いている人や趣味やボランティア、親の介護に頑張っている人、そしてみんな山を愛し繋がっているんだと思いました。
東北の地震による津波で、天災て考えられない事が起こるので怖いと思い、数分の間で家や車、田畑を潰して流し何もかも失くしてしまう映像や現場を見て、押し迫ってくる思いがしました。金華山のボランティアでは貯水槽が土砂と石で無くなってしまったので、土砂を袋に入れて土砂取りや石の撤去作業をしましたが、一つの目的のために皆で働く事はとても良かったし楽しかったです。食事を自炊する時も同じ思いを感じました。お食事とても美味しかったです、有難うございました。
第3次東日本大震災支援報告 吹田勤労者山岳会 コ野暢男
荒涼たる風景が眼前に広がっていました。前日哀悼に訪れた石巻市の日和山からの、女川町の市街地の、そしてあの大川小学校とは違った風景が金華山へ渡るために訪れた牡鹿半島の突端に近い石巻市の鮎川浜にありました。
人々の活動が感じられる日和山周辺、ダンプ車が走り視察地の公共施設が昨日している女川町、まだ新しい小学校の建物だけがポツンと立っている大川小学校、これらとは違う風景でした。人々の活動は皆無で、車はボランティアと思われる人達のものばかりです。かろうじて港で魚の飼料と思われる袋を積み込む一隻の漁船とその近くで黙々とワカメのめかぶを切り取る一人の若者を見ることができました。
地震と津波はまさに一村を崩壊させました。地震だけならば神戸の例にもあるように建物の再建など復興も容易でしょう。でも津波はさらに地域を全壊させます。特に田畑の復旧は容易ではないと思います。塩害のうえに廃棄物が流れ込んでいます。大きなものは既に撤去されていましたが、小さな石や木片、金属やガラスの破片、これらの除去は容易ではありません。
これらを見て私は二つのことに思い至りました。一つは政治の役割です。決断力や実行力の無さを嘆き、政治不信に陥っても、数十兆円とも言われる復興費用の財源確保とその配分、これを動かすことができるのは政治です。公平で効率的な復興予算の執行を心から望んでいます。
もう一つは市民の役割です。現地で聞いたところによると、田畑の復旧をはじめ斜面の清掃などボランティアに期待している作業は沢山あるとのことです。多くの人手と長期間に亘る作業が必要でしょう。
そして、この二つは実は繋がっていると思っています。政治の世界には厳しい監視が必要です。監視の主体は市民です。そして、ボランティアの主体も市民です。
今回の参加で私たち市民の重要な役割と責任を痛感しました。
機会を得てまた参加したいと思います。お世話になった多くの方にお礼申し上げます。
そして、何よりも亡くなられた方々に哀悼の意を表しますと共に被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。 合掌
第3次大阪労山東北支援隊に参加して きたろうハイキングクラブ 定井国昭
昨年7月の第1次支援隊で参加した時は、余りの被害の大きさと惨さに驚き、この場所に本当に賑やかな町が有ったのだろうかとの光景でした。当時は震災から3ヶ月余りで、人々はまだ何を成すべきか考えもつかない常態だったと思う。中心街の辻つじの信号機は消えた状態のまま、いたるところにがれきはまだ残っていました。
それから7ヶ月過ぎ3次隊が見た石巻の町並は、がれきは1箇所に集められ一応町の体裁は戻っているように見えるが、商店の中はガラガラでシャッターや表戸だけが取り繕われ、人々の顔が見えないのは相変わらずな様子。被災された人々はこの町に戻ってくる決心がまだ付かないでいるのでは無いでしょうか。
私は今回の大阪労山支援隊に参加して思ったことは、私たちは被災した方々の物質的損害の復旧支援をしに行くのではないと思いました。
人海戦術でそのようなことをやったところでたかが知れている。金を使って重機を入れて土木仕事として行えば短期間で済む。
その様な事は国の責任でもっと速やかにもっとたくさんの費用をつぎ込んで迅速にやるべきことで、私たちがしている水田の塵拾いや水源地の土砂揚げを黙々と請け負うことは、それを見た被災された方たち自らが復旧への意欲を大きく膨らませていただく手助けとすることではないかと思う。
その為にはもっとたくさんの人たちが映像からではなく被災者の顔を直に見、話しかけて声を聴き、一緒になってもっと早く、もっとたくさんの費用をよこせと国に伝えることが私たちの役割ではないかと思う。
彼らが本当に心の底から元気を取り戻せるまで機会があれば何回でも支援隊に加わりたいとの思いを強くして帰阪した私でした。
震災復興ボランティアに参加して 泉州労山(大町労山) 鈴木 均
石巻から白馬に帰って一人になると、みんなで歌った「故郷」と「山は心のふるさと」の歌詞とメロディが、いつまでも耳の奥に残り、あのときの情景が浮かんでくる。とくに1日目、石巻市内や女川町の被災地を見学し、津波の驚異に声も出ないくらいに圧倒され、夜の交流会の最後に大阪の30名と千葉や京都労山のボランティアのみなさん、総勢60数名が肩を組んで、アコーディオンの伴奏に合わせて「故郷」を歌ったときは、自然と涙が流れてきた。
東北には山や観光で何度か行ったことはあるが、石巻市や女川町には初めて足を踏み入れた。似たような町の光景をテレビでは見てはいたが、現実に目の前にしてことばが出なかった。それは、文字にも表すことができない。1年が経過しているのに、未だにいたるところに瓦礫の山、建物があったであろう土地は平地になって延々と続く。流されなかった鉄筋の建物は2階・3階まで窓がなく、比較的形が残っている鉄筋の家屋でも住んではいない。壊れた公民館などもそのままの姿だ。海水を被った農地は表土を削って黒くなっている。児童の7割74名と教職員10名が犠牲になった大川小学校、海面から10m以上のかなり高い位置にあるのに玄関の柱に津波の高さを記された女川町の病院。あっちこっちに、まだ放置されたボートや漁船。高台に細々と建てられた仮設住宅・・・・・あまりにも悲惨な光景というありふれた言葉では伝えることができない。もどかしい。市も町も県も、おそらく全力上げてここまで来たのだろうが、復興と言うには、まだまだ遠い。
とりわけ、自分自身に小学生の孫をもち、また教職の身にあるものとして、大川小学校の犠牲には特別の感情を抱く。「何とかならなかったのか」と思う。ご遺族の気持ちも同じだろうが、当時の教師たちを攻めることはできない。自分だったらどうしただろうか、形だけの危機マネジメントでは語ることができない。
二日間、金華山黄金山神社の水源地にたまった泥と崩壊してきた石の撤去をした。慣れない”土方”仕事だった。金華山には、もちろん初めて行ったし、今後行くことはおそらくないだろう。14人乗りの小舟は波にぶつかって激しく揺れた。こんな時に、余震が来たらどうなるのだろうと思っているうちに、20分あまりで島に着いた。どちらの港も、まともな船着き場にはなっていない。海岸はえぐり取られ、待合室などももちろんない。
映像で見るのと、自分の目の前で見るのとは明らかに違う。今回の震災支援の経験は、私にとってあまりにも衝撃が大きかった。神戸の時も日帰りで支援に行ったが、神戸の場合は津波の被害がないため面積的には東日本大震災と比べて規模が小さい。
多くの知人や肉親を失なったであろう石巻労山の岡さんが明るい声で説明してくれる。悲しんでばかりいられないという。心中は察するにあまりあるが、その思いの少しでも共有できればと思う。
車から見える石巻の街並みは、中心部は少しずつ元気を取り戻しつつあるようだ。海は、何もなかったように穏やかだった。4時に起きて登った金華山の頂上から見たご来光は、雲があって水平線からではなかったが、山で見るのと同じく、それはそれは、まさに黄金の輝きだった。
今回、こんな機会をつくってくれた園さんはじめ、大阪労山役員のみなさん、ありがとうございました。また、他の会員の皆さんと交流できたこともよかったです。また機会があれば、ボランティアに参加したいと思いますが、東北の山にももっと登ってみたいと思います。きっといい山に出会えるだろうと・・・・。(帰りに安達太良山に山スキーに行きましたが、強風で途中まで登って引き返しました)
帰った翌日も、白馬は雪でした。
石巻震災ボランティアに参加して 長野県連・大町労山 勝野秀次郎
大阪府連のみなさま、大変お世話になりました。会長・理事長さんをはじめ、多くの方と交流することができ、とても有意義な4日間でした。
今回初めての震災ボランティア活動でしたが、テレビや新聞で見たり聞いたりするのとは大違いで、現地の状況は目をおおうところもありました。女川町の病院があの高さまで津波が襲ったこと、そして74名の児童が死亡・行方不明になった大川小学校あと地は、とても心痛む場所でした。ここで感じたのは、観光バスなどで多くの方が見えていましたが、今後観光地化されないよう願わずにはいられなかったことです。
労山会歴の浅い方もおられましたが、みなさんが各会で集中して、和気あいあいとボランティア活動される姿がとても印象に残りました。
私も、長野県連副会長として、今後も震災ボランティア及び労山活動にいっそうがんばりたいと思います。
たいへんありがとうございました。
東北ボランティア (泉州労山HP掲示板より) 泉州労山 大西清見
【被災地】3月16日の夜〜20日夜、連盟傘下の会仲間と東北震災復旧支援活動に行ってきました。総勢30名、被災地の見学や旧牡鹿町・金華山の神社貯水池の砂礫撤去の作業でした。今夜はその被災地の写真を見て下さい。被災地見学は、石巻に到着した17日の午後でした。今回、初参加の方が大勢おられ、小雨のなか、復旧がまだあまり進展していない被災地を見て、「感動という言い方はおかしいけれど、ただただ考えさせられることがいっぱい。これからも東北の方と一緒に頑張っていきたい」という多くの方の感想でした。
女川町の市街、まだ横倒しのままのビルが 女川町の高台にある医療センターにも津波が。
ありました。 高台は10m以上、更にその上の玄関に記録された
津波は195cm。凄まじいパワーです。
【金華山】3月19日、神社貯水池の作業を前に、牡鹿半島の東方・金華山に大阪の山仲間13名で登ってきました。天候は晴れ、素晴らしいご来光と太平洋の眺望が楽しめました。金華山は牡鹿半島の先端に浮かぶ金華山島の山。往復2時間、自然が保護された美しい登山路でした。
金華山から牡鹿半島。昨年の津波の引き波で 金華山の沈下した埠頭、昨年の地震で金華山
一時、金華山と陸続きに。 は東に5m移動、1.5m沈下したそうです。
【土砂撤去作業】3月18日、19日の二日間は、金華山黄金山神社水源地の土砂、岩石の除去活動でした。二つの水源池は震災、その後の9月の台風ですっかり埋め尽くされていました。土砂撤去は、この二日間の作業だけではとても足りません。震災前はこの金華山を訪れる観光客は年50万人とか、一日も早く復旧してほしいものです。
このような貯水池が二つあります。溜まった 大きな岩石も運んでいきます。
土砂を土のうに入れて撤去をします。
【交流】17日夜、石巻市・水沼東部構造改善センターで、震災復旧支援に来られていた千葉労山と交流しました。お互いの会活動や震災復旧支援の活動の感想を出し合いました。石巻労山の岡良一さんの、この一年の活動報告も話していただきました。18日は金華山の神社社務所で京都労山と交流、全員ひと言感想を語りました。みんな涙々の感想の言葉でしたが、その後は底抜けの明るい交流もありました。「本当に東北に来て良かった。これからも忘れずに支援を続けたい」と大阪連盟の女史も。
石巻市・水沼東部構造改善センターでの 金華山でも京都労山と楽しい交流も。
交流会。
第3次東日本大震災支援活動に参加して 八尾山の会 笠井ふみ子
日程 2012年3月16日夜〜20日
参加者 大阪府勤労者山岳連盟の山仲間28名現地で3名合流
支援目的 金華山地区貯水槽の土砂撤去復旧支援、山岳会らしい具体的支援策が有ればよりベターと石巻
労山の岡さんの要望でした
3月16日
午後10時山仲間28名とマイクロバス1台、乗用車1台に分乗して宮城県に向かい車を走らせました今回は泉州労山の方と、お友達が大型免許を持っているとの事で、車で約13時間半の遠い道のりでも安心していましたが、結構2人とも元気が有りすぎて寝られませんでした(笑)
3月17日
午前11時半過ぎに石巻市内に着き、前回参加した人の誘導で石巻市内【商店街を行ったが、信号は復旧
していたが店は閑古鳥が鳴いていました】を回りました。
日和山公園 女川地区、ここでも船が乗り上げている
のが未だに放置されており、大川小学校の現場も回りましたが、私がまず最初にカルチャーショックを受けた
のは、震災から1年も経っているのに、テレビ新聞で見る報道と実際目の辺りに見た違いにギャップが有りす
ぎて唖然としました。
それに町全体で異様な臭いを感じました。未だ5階のビルは倒れたまま莫大な瓦礫の山。スクラップ状態になった車の山。とてつもない広大な広さには津波に流され建物自体が無い話を聞くと塩抜きが必要だが日数がかかるみたいです。ガードレールも飴のようにくねくねで、建物が有っても外の骨組みだけ残っている状態。殆んど復旧も進んで無いし全国から集まっている何億円も有る義援金は本当に有効に使われているのか疑問に思う。その時点で既に私の頭はパニックにきているのに、峠を越える1番高い所にも被害の爪跡がくっきり残っていたり、仮設住宅も峠の窪みの中に建っていたが回りは更地でどうやって生活しろと。市内ではメーカーのしっかりした会社が建てた住宅はマンション的、反対に何でもいいから建てた住宅は凄く粗末な掘っ立て小屋で愕然とし、未だ雪も残る場所の寒い部屋に、抵抗力の弱い年寄、子供達が病気になるのも頷かれました。ただ建てたらいいと思うかも知れませんが、住む人の事も考えて欲しいです、行政区は。
大川小学校でも子供達が大勢犠牲になり、まさか5qも離れている所から津波が来るとは先生も思わなかったのか判断が甘く、学校の直ぐ横に高台の山が有り小さい子も含めそこに登っていたら助かったのに・・・。学校の回りにも沢山の建物があったようですが今は更地のみです。献花台にも沢山の花が置かれていましたが観光客らがキャーキャー言い【観光客らが来てお金を落としていくのも違う意味で貢献している】ながらバスから降りてきて写真を取っているし、片や、お婆ちゃんが、見つからないのを承知で毎日孫を探しに来ていると聞いて体の震えが止まりませんでした。ちょうど報道の人が来ていたので思わず駆け寄り私達一般人は報道されている情報を真に受けているのだから、表面的な報道より、もっと中味を掘り下げて報道して欲しいと訴えましたが何処まで分かってくれたか・・・。
後は夕食の買い出しをして今夜の宿舎へ。夜は寄せ鍋【安い材料をたっぷり】を舌鼓しながら千葉県労山の仲間と交流したが 感極まって涙が止まらない男の人もいて如何に現状が未だ酷いかを痛感しました。
3月18日
4時起床6時出発、今日から支援場所になる金華山という島に移る事になった。12人乗りの漁船等に分散して移動したが、波は荒いし小さな舟なので揺れかたが半端じゃない。たった20分の間ずっと横の人にしがみついていた。
島で出迎えてくれた所も大きな被害で桟橋も沈んで無ければ、売店も外組だけ残り島全体が大分沈んでいると説明を受けました。島は自然が残り鹿などが沢山住んでいましたが住人は今常時6人で神社を守っているらしい。現に神社の宿舎に着いた時も石灯籠を修繕していた。昨年の7月から岡山県から専属でボランティアに入っている若者に指示して貰い現場に向かう。既に他の県のボランティアの若者が数名居たが遊び半分でやっているように映った。その人達は一時間位で下山して私達が後、京都労山12名と合流して重機を入れる為の道作りで、土嚢を掬って袋に詰めてリレー方式で作業するが水を含んでいるのでメチャ重い。でも今回高齢者最高年齢86歳【失礼】が多い中さすが山やさんやな、力が半端じゃないし連携プレーもさすが。あっという間に2000個の土嚢袋が一杯になった。その間15分しては休憩取りながらしないと腰とかが持たない。昼は買い物間違いで1人お握り1個。後は行動食で間に合わせこんなんでは力出ないよと言いながらも皆やる気満々(笑)。昼からは重機を入れる為の道造り、 班に別れて石をシャベル?大きなスコップで掘る作業や運ぶ人。中々進まない作業でも、一つの作業に皆が集中していたのでしんどかったけどやりがいがありました。 夜はうどん入りの豚汁を舌鼓しながら神職から状況を聞き、津波の当日は海の底が見え空が真っ暗だったと聞いた時も身震いしました。
3月19日
もう来る機会は無いだろうと、希望者13名が朝4時起きで満天の星空の下金華山に登りました。作業用長靴で行ったので雪の所とかで滑りそうになった。たった477bの低山ですが、静かな波の雄大な海の彼方から雲の間から出た御来光は最高でした。頂上にも祠が有りますが表は真新しい鍵が掛かっていたので、お参り済まし裏に回ったら無惨な爪跡でした、帰りも猿の頭蓋骨が有ったり・・・
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簡単な朝食を済まし又昨日同様の作業。でも今日は波が荒いので船が1台しか出なくてピストンになるからと京都労山の仲間は早めに下山。作業時間は二時間半?位しか出来なかった。全員が渡舟終えて殆どの人が泥んこだったので念願の温泉に入りさっぱりしたが風呂の中で地元の人に話しかけられ、消防士の旦那さんが遺体を引き取る時、脚とか手が取れたりと損傷酷い者でも流されないようにロープで縛って固定した話や、津波の直接被害は免れたが音も無く窓のサッシから水が入って来てほんの何分間の間に床上浸水で怖かったと話してくれ、風呂で暖まらないといけないのに寒気がした。道の駅で今夜の買い出し。宿舎に帰り最後の晩餐会【カレーライス】しながら地震当時の記録を見せてもらいましたが、自然の恐ろしさ、人間なんて小さな蟻のようでした。真っ黒の水がとてつもない速さで襲い、ビルも家も積み木のように流れて引き津波で全部持って行く。撮影した人もどんな気持ちで高台から撮影したのかと思ったら食事も喉を通りませんでした。
3月20日
早朝宿舎を出ましたが雪が積もっていました 。 帰りYMCCの仲間が美味しいサービスエリアを知っていて、予約を入れてくれて今回初めてマトモな食事【豪華な海鮮丼】をし、安全運転をしてくれたお陰で予定よりも約2時間も早く大阪に着きました。
今回も行っている間軽い地震が2回有りました。最後に、まだまだ復興は遅れていますボランティアの言葉を安易に考えて参加した自分自身を反省しつつ、今回身を持って体験した事は私の此れからの財産になると思います。
たかが2〜3日の作業【移動に時間がかかり過ぎて】では微々たる作業しか出来ませんでした 。 それに参加者の食費も出来るだけ安く切り詰めても思っている以上に多額な費用もかかります。これからも支援を続けて行く為には、送り出すボランテァの負担を少しでも軽くする為及び心のケアにも気配りし送り出す。実際地震の事は他人事のように薄れてきていると思いますが、今まで以上に継続支援をやっていかないと前に進まないと思います。重複しますが新聞や報道を真に受けないで下さい、現実とは掛け離れているので次回は1人でも多く参加出来たらいいと思います。
第3次支援に参加して 会長・ひまやま 服部 功
被災した沿岸部を実際に目にした時の光景が忘れられません。震災から一年、更地にはガレキの山と、建屋の基礎だけが残り、町には大きな傷痕を残していました。
被災地では様々な問題を抱え、大変な状況が続いています。一日も早い復興を祈り、被災された方々の平穏な日常を祈り、自分でできる支援を実行していきたいです。
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