大阪府勤労者山岳連盟第一次東日本大震災復旧支援報告

   大阪府連会長   園 敏雄 記

日 程 2011年7月28日(木)〜8月1日(月)

参加者 きたろうHC6名 八尾山の会1名

目 的 農地の汚泥、がれき撤去支援

現地コーディネーター 石巻労山 岡 良一氏

 

7月28日(木)

21時 連盟事務所発7名で阪神高速、近畿道、第二京阪、名神高速、北陸道、磐越自動車道、東北自動車道、三陸自動車道を経由して石巻へ向かう。

7月29日(金)

8時30分石巻港ICを出て石巻市内に入り朝食後、9時30分岡氏に連絡、北上町大須のボランティアセンターに向かう。10時30分現地の責任者松熊君(30歳前後?)と合流し打合せ、滞在日程を報告し3日間も農地のがれき撤去では嫌になるでしょう、今日は苗植え機で使う塩ビ製の40×60のパレット洗いをして下さいと言われ現場に向かう、現場には農家の中年女性と弟、ボランティアの青年2名がすでに作業を始めておりそこに合流、倉庫を見ると約一万枚ほどのパレットが積まれていた。青年たちは失業しているが一か月半、2日目とそれぞれのボランティア経験を話してくれた。作業は中腰でかなり腰に来る。まずドラム缶程のポリバケツで水洗いしその後簡易洗浄機、機械洗浄機で洗浄し種類別(5種類ほどあり)に10枚ずつ纏めた後倉庫に積み重ねる。11時から昼休みを入れ15時まで12人(あとから羽曳野出身静岡在住の中年女性ボランティアが加わる)で約一千枚を洗浄、この作業も農家の方にとっては大変な作業、頭が下がる、でもこの量でも半分は津波に流されたそうだ。お別れをして避難所となっている追分温泉(湯治場)で汗と夜行の疲れを落とす。食料の買い出しをして岡さんが手配してくれた労山の宿泊所、水沼東部構造改善センターへ、先着の兵庫労山高御位山游会4名、夕方から慰問に来てくれた岡さんと交流。河北新報社監修の東日本大震災のビデオを見ながら被災状況の説明を受ける。

因みにセンターには鍋、食器、ガス、水道、冷蔵庫など完備されており、部屋は20畳ほどの和室と50名程が寝る事のできる体育館がある、布団は無いが座布団がたくさんあるのでマット代わりにできる。

7月30日(土)

大須に8時30分着、今日明日はいよいよ農地の汚泥ガレキ除去作業、1fの田圃毎に片づけていく、大きなパイプや電線、コンクリート製の1M×1M×5Mの5p厚のU字溝、石ころ、瓦、サッシなどの金属片、10畳位の水泥を含んだじゅうたんなど種々雑多なものが流されてきており、それを重機が届く道路際まで集める、しかし如何せん7名では重たいものは運べないので重機に頼らざるを得ずその場に残した。11時ごろに30名程のボランティアグループが到着し他の田圃へ入って行った、連れてきた松熊君に尋ねるとたくさん来てくれたがお昼までなんですよとの事、ふざけるな、冷やかしに来たんかと言いたいやろと言うと、そうですねとの答え、残念そうな表情が見て取れた。そうこうしているうちに雨が降り出し我々も2枚目の田圃を片づけて2時頃今日の仕事を終え明日は現地へ直行する旨を伝えて引き上げる。ちょうどその時、佐賀県警の機動隊がバス2台、保冷車、パトカーで現場に来ていた、この様子では新たに遺体が見つかったのかもしれないと予想しながら昼食と風呂へ向かい宿に引き揚げた。

この日は夕方宮城県連新田理事長がアサヒスーパードライ500t缶6本、スイカ、

岡さんがカレーと自分の畑で採れたアスパラサラダの差し入れで交流宴会しながら楽しい夕げとなる。明日ぜひ女川、雄勝などの沿岸部を見て大阪へ帰ったら状況を知らせて欲しいとの事で現地へ出向く前に行くこととし就寝する。

7月31日(日)

明け方3時54分寝ている時に福島沖で地震発生、部屋の障子がガタガタガタガタと鳴る音で目が覚めたが不思議と体に揺れは感じない、石巻では震度3だった。新田さんの話ではいまだに有感の余震は続いてるとのこと。しばらくうたた寝して4時半に起床、朝食後6時から新田理事長の車にも分乗して津波被害の大きな被災地を案内して頂く。最初に石巻日和山公園へ、標高60mほどの高台、ここにも被災者が駆け上って来たそうだ、ドキュメントを纏めようとしているのか地元のTV局が石巻港の方向にTVカメラを向け取材していた。私たちもその方向を公園から眺める、市立病院や数えるほどの家が見えるが今までTVや新聞で見た通り津波で殆どの家や建物が流されて悲惨な状況で、そのあと下まで降り間近に現地を見て息をのむ有様に大きな衝撃を受け胸が痛んだ。車の通れる道路の脇にはうず高く積まれたがれきの山があちこちに見られる。農地のヘドロの原因となった日本製紙の工場も、港湾の水産加工関係、市場関係もズタズタのままでいつ復旧出来るのかと思う。全国連盟支援隊が5月に入り家屋の床下のドロ除去した所は更地になっていた(新田理事長より教えてもらう)。そこから三陸海岸沿いに女川港、雄勝町を回るどちらも規模は石巻に比べると大きくない町だが被害は同様で、3階建ての鉄筋の事務所が根こそぎ倒れていたり、漁船が陸に打ち上げられたままだったりで殆ど人影がなく胸が締め付けられる。雄勝総合庁舎前で車を降り休憩時被災方向に向かい心の中で合掌する。道中では辺ぴな所に仮設住宅が建てられており。こんな所では車がなければ生活できないしお年寄りや子供などの立場の弱い人たちはどのようにしているのだろうかとまた胸が痛むばかりだ。

午前9時過ぎに北上町大須の現場に到着。新田理事長と別れを告げようとするとここは初めての所で一緒に手伝いますよと言ってくれた。今日も作業を始めようとすると又雨が降り出す、昨日と違ってこちらの農地には道路からはがれたアスファルトの塊や、鉄骨、農業で使う器具などが多い、子どもの名前が書かれたプラ容器のコップなども出てきて涙が出る、やりだしたら50人ほどの青年ボランティアが到着、こちらは流石に三日目ぼちぼち疲れが出てきて動きは悪いが、青年はフットワークが軽い、年齢の差は如何ともし難く、ひとところに集めておいたガレキを重機の届く集積場所へ移動してとお願いする。やはり数が多いと片付くのも早い、「数は力」を実感する。11時半ごろ行動食休憩とし新田理事長はこれで退席、12時頃になると青年ボランティアは昼食のため一時引き上げる。我々は次の農地で2時位 まで働きましょうと作業を続行しある程度纏めたところでリーダー松熊君に声をかけ引き揚げさせてもらった。追分温泉に入浴し疲れを取り夕食の買い出しをして宿に戻る。今晩も岡さんが訪ねてきて昨夜頂いたカレーをカレーうどんやカレーライスにして、遅くまで酒を酌み交わしながら早朝見てきた感想を言ったり、まだまだ支援を必要としているという想いを語り合ったりして遅くまで話が弾んだ。

8月1日(月)

朝7時過ぎ、岡さんに松島を見て帰るならぜひ奥松島も見て帰ってという想いを受け見送られて宿舎を出る。奥松島海岸は岡さんの言うとおり風光明媚であったろう松原は無くなっており小さな港には漁船とガレキが混在して積み上げられたまま残っており、また、なんじゃこれは〜と驚嘆の声を上げてしまった。日本三景の松島は遊覧船が運航されていたが9時からとなっており一時間以上も待たなければならないので大阪へ早い時間に帰りたいという想いから断念し高速に向かい20時帰阪、第一次支援の任務を終えた。

*おわりに

初日は種苗機用のパレット洗浄、あと2日間で約6枚の田圃の汚泥、ガレキ除去をしたがまだまだ農地は広く今後も支援は必要であろう。私達もそれなりの支援が出来たという満足感を持って作業をしてきたがボランティアの必要性は何年も続くのではと思う、現地宮城県連新田理事長、コーディネートして頂いた石巻労山岡さんには被害を受けながら何かと心配りを頂きました。現地の思いを真摯に受け止め雪が降るまでに第二次、三次と支援が送れるよう、大阪労山の皆さんには長々と書きましたが第一次支援隊の思いも受け止めて頂き、引き続きご支援ご協力をお願いしたいと思います。